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清仏戦争記念園区

清仏戦争記念園区入り口 1
清仏戦争記念園区入り口
清仏戦争記念園区の石柱 2
清仏戦争記念園区の石柱
清仏戦争記念園区の記念碑 3
清仏戦争記念園区の記念碑
清仏戦争記念園区入り口縮小圖片, 角度1
清仏戦争記念園区の石柱縮小圖片, 角度2
清仏戦争記念園区の記念碑縮小圖片, 角度3

清仏戦争記念園区は中正区二沙湾中正路のそばにあり、フランス公墓と民族英雄墓の統合名称であり、主に清仏戦争時に犠牲となった将軍や兵士を記念するために建てられたもので、現在は市指定古跡とされている。 清仏戦争はまたの名を中仏戦争とも呼び、清朝政府とフランスとの間でベトナム主権問題が原因で勃発した戦争である。ベトナム境界内で戦争が繰り広げられ、フランスは雲南の境を攻め打つために部隊を派遣し、海軍将領が極東艦隊を率いて福建や南洋の両艦隊を撃ち破り、台湾海峡の制海権を手に入れ、台湾基隆と澎湖も占領した。戦争中、フランスの陸・海軍は多数の戦役によって優位に立ったが、全局を押さえられる戦略的勝利を取得することは出来なかった。そして清軍は初期において陸海共に惨敗だったが、後期は台湾と杭州湾の防衛に成功し、鎮南関の役ではフランス陸軍に厳しい死傷者をもたらして、ジュール・フェリー政権を崩壊させた。 フランスは1884年に提督クールベを派遣して基隆を進攻させ、当時台湾初代巡撫であった劉銘傳は8か月に及ぶ抵抗のもと、フランス軍の撃退に成功したが、両者ともに大勢の死傷者を出した。清仏戦争で犠牲となった兵士たちを記念するため、フランス公墓と民族英雄墓をそれぞれ建て、現在はこの二か所を合わせて清仏戦争記念園区と呼ばれている。 フランス公墓は清の光緒11年(1885年)に建てられたもので、墓園中には合計4つの古墓があり、園内で最も重要な文物(百数年もの歴史がある)である。花崗岩墓碑や砂岩墓碑があるが、砂岩墓碑は既に風化していて断痕もあり、墓碑上のデザインは十字架と円形模様がメインとなっていて、園中には日本統治時代に建造された記念碑もある。フランス公墓の近くにある民族英雄墓は、戦後に清国軍隊と義勇軍の殉死戦士を埋葬するために建墓されたが、日本統治時代に道路興建のために取り壊されたため、現地の地主によって「清国人の墓」が再建された。日本人は台湾人がそこに集まって世間話をすることを許さなかったため、墓は再度壊され、第二次世界大戦後にようやく現在の記念碑が再々建された。