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北白川宮能久親王記念碑

北白川宮能久親王紀念碑の入り口 1
北白川宮能久親王紀念碑の入り口
北白川宮能久親王紀念碑 2
北白川宮能久親王紀念碑
北白川宮能久親王紀念碑の紹介 3
北白川宮能久親王紀念碑の紹介
北白川宮能久親王紀念碑の入り口縮小圖片, 角度1
北白川宮能久親王紀念碑縮小圖片, 角度2
北白川宮能久親王紀念碑の紹介縮小圖片, 角度3

明治28年(1895年)、北白川宮能久親王は軍を率いて台湾を征討するために来台し、6月4~9日に基隆旧海関御舎営に滞在、同年10月28日に台南で病死した。その後、日本人は営舎のそばに郷土館を建て、左側に功績を記念する碑を建てた。 台湾が日清甲午戦争で日本に割譲された際、北白川宮能久親王は台湾を征討するために派遣された日本人将軍の一人であった。清朝が甲午戦争で日本に敗北した後、下関条を締結し、台湾と澎湖を日本に割譲することになり、日本はすぐに台湾に兵を派遣したが、台湾住民の武力抵抗に遭った。当時唐景崧を首領としていた台湾民主国が成立した後は、能久親王が近衛師団を率いて台湾を進攻し、数か月間に及ぶ乙未戦争を繰り広げ、台南を攻め落とした一週間後、北白川宮能久親王はマラリアに感染して自宅で病死した。 台湾における日本統治時代の50年間で、能久親王は神格化され、その「終焉の地」で台南神社を興建し、能久親王を主祭神とした。一説によると北白川宮能久親王は新竹の牛埔山で抗日義軍によって殺され、被弾して亡くなったが、日本軍によって北白川宮能久親王の訃報が隠蔽されたとも言われている。北白川宮能久親王が台湾を征討しに来た際、基隆旧海関御舎営に滞在していたことから、現地には能久親王の記念碑がある。 北白川宮能久親王記念碑はコンクリートによって作られ、装飾として洗い出し塗装を施し、主碑体裁面は正方形の四つ角を切除した八角形で、高さは3m。三段に分けられ、碑座は比較的広く、軍帯の模様があしらわれ、被記念者の身分を表明している。碑頂部と碑本体の間には三本の線があり、碑頂部は錐形となって突起している。当記念碑は近年になってようやく発見されたもので、長年にわたって保護されなかったため、一部が既に損壊している。