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老大公廟

老大公廟の鳥居 1
老大公廟の鳥居
老大公廟の神像 2
老大公廟の神像
老大公廟の鳥居縮小圖片, 角度1
老大公廟の神像縮小圖片, 角度2

初期に漳州と泉州から移住してきた人々は、土地をめぐって闘争が起こり、甚大な死傷者を出してから、双方ともやっと後悔を覚え、共同で老大公墓を建て、後に老大公廟と改名された。そのため毎年旧暦7月1日の鬼門が開く時には、鄭重な儀式を執り行って、鬼門を開き、亡霊を祭っている。また当イベントのために、老大公廟は7月の普渡で、全国にその名を馳せることとなった。 台湾と漳泉の争いは清朝の乾隆帝から道光帝の代に至るまで続き、咸豊の年が最盛期であった。咸豊初年に、基隆の漳州人と暖暖の泉州人は魴頂(現南栄公墓)を境界としていたが、互いに土地境や、水道の灌漑、商業の利益といった問題のために常々衝突し合い、闘争に発展することもしばしばあった。 咸豊3年(西暦1853年)基隆の108名の漳州人は揃って暖暖の泉州人を襲撃した。しかし事前に暖暖の泉州人に知られ、魴頂で待ち伏せされていたため、108人全員が殺戮され、この事件は基隆史上最も惨烈な闘争事件となった。 その後話し合いを経て、108人を蚵殼港のほとりに合葬することになり、当時は老大公墓と呼ばれた。西暦1855年より基隆の金、鶏、貂、石四堡の11姓が順番に主普を務め、鬼門開きと鬼門閉じをここで行う様になった。日本統治時代には、元住所の建海軍宿舎から、現住所への移転を余儀なくされ、1984年には老大公廟へと昇格した。 老大公廟の主要な祭祀活動は旧暦7月に行われ、毎年旧暦7月1日の午後に、廟宇管理委員会の委員長によって龕門が開かれることで鬼門が開かれたことを象徴し、旧暦8月1日に行われる「火焼大士爺」と「跳鍾馗」の儀式中に龕門を閉じ、手炉を引き継いだところで中元祭が終了する。